Showa Wheel Bonanza Part I
The Pioneers of Japanese Domestic and After-market Wheels
国産アルミホイールの歴史をひも解いてみた
なんだかんだいって、車の中で最も重要なパーツはホイールだと考えている人は多い。極端なケースでは履きたいホイールがあって、それに合う車を探して選ぶ人さえいる。人間で言えば靴のようなもので、うわものをどんなに決めても、中身がどんなに偉かろうが、そこんとこでやっちまっていると全て台無しに。。。ホイールとそれに合わせるタイヤサイズやフェンダーとのギャップのキメかたで、オーナのスタイル、コダワリの深さ(浅さ)、価値観までも伝わってしまうと言う恐ろしいパーツだ。チョイス次第ではクルマとそのオーナのキャラまでも全く違って見えてきてしまう決定的なパーツ、ホイール。それを逆手にとって、ミーティングの内容やその時の気分でホイールを付け替えて楽しむ、という強者もいる。そういう人どうしの会話になると、逆にアリだ、とか、一周半回って今は無しだ、とかもうよく意味のわからない、尽きることのないホイール論争が続くのだ。そんな、コアなオーナ達を熱くさせるホイールについて調べてみたら、いろいろと面白いエピソードと世界がかいま見えてきた。ひとつのホイールを選んで履いた姿に、そのホイールの歴史やストーリまでも重ね合わせて見ることで、その佇まいはさらに深みをましていく。旧車を趣味とすることの面白さはと深さは、そんなところにもあるんじゃないかと改めて思う。
我が家にマイカーがやってきた
昭和40年代、日本列島は高度経済成長に湧いていた。東海道新幹線開通、東京オリンピック、大阪万博、気がつけば昭和43年にはドイツを抜いてGNP世界第二位となり、いわゆる平凡な中流家庭にも”豊かさ”をわかりやすくカタチにした製品がいきわたりつつあった。中でもこの時期に爆発的な普及をみたのがマイカーとカラーテレビだった。それは生活を便利にしたのはもちろん、衣食住足りた日本国民に、そのさらに先に広がっている”すばらしき”世界があること、つまり娯楽、そしてさらなる贅沢の追求という新たな欲望を喚起したのだった。 その欲望を具現化するかのように昭和40年、東京モーターショウではトヨタ2000GTのプロトがツイッギー付きでお披露目された。42年から本当に販売が始まり翌々年までにはハコスカGTRやフェアレディZ(S30)も発売された。やがてヒーロー達にふさわしいステージも用意される。同年には東名高速が全線開通、鈴鹿サーキットが昭和37年、富士スピードウェイも昭和41年オープンをむかえる。鈴鹿では早速、戦後初めてとなる自動車レース、第一回日本グランプリが開催され、20万を超える観衆がつめかけたりしていた。環八沿いには自動車用品を扱うカーショップが次々にオープンした。クルマを娯楽の対象として、あるいはステータスやスタイルの表現手段として楽しむ時代の幕開けだった。
国産アルミホイール誕生前夜
昭和38年(1963年)の第一回日本グランプリ開催の時点では、まだ国内でアルミホイールを製造できる者はなかった。ワークスのレース車両でさえ、スチールホイールをカットして円筒を溶接してワイド化したいわゆる加工ホイールで戦っていた。この技術を今に伝承する鎌ケ谷ワイドホイールのみならず、当時はレース用ホイールの定番として流行。東名自動車(現東名パワード)の最初の製品も加工ホイールだったという。この流れにのり、TOPYや中央精機といった純正OEMメーカーがアフターマーケット用に最初から太リム幅のスチールホイールやメッキホイールを供給しはじめ人気を博した。(そう、ワイド鉄チンの中には加工モノではなくてTOPY純正?のものもあるんです!!)中央精機のメッキホイールはエルスターと名付けられ、パラマウント・WEDSから販売された。ワイドホイールやメッキホイールはアルミホイールの普及後も価格が低かったことから並行して存在したが、70年代後半には姿を消していった。エルスターのヒットはレース需要だけではないアクセサリとしてのカスタムホイール需要の高まり、つまりドレスアップパーツとしてのアルミホイール需要のポテンシャルを示していた。量産アルミホイール登場の機は熟していた。
黒船来航
第一回日本グランプリでは海外の本格的なレースカー10数台が招待参加した。走行はエクシビジョンに近いものだったが、その足元と固めていた専用マグネシウムホイールに国内レース関係者はカルチャーショックを受ける。資金力とコネのあるレースチームは輸入規制をかわして高価な輸入ホイールを手に入れ、誇らしげに装着するようになった。ワークス系では中央精機がホンダに、神戸製鋼が日産にレース用のマグネシウムホイールを試作・製作し、製鋼はトヨタ2000GTの純正マグネシウムホイールも製作した。プライベートのコンストラクタのなかにも、独自にアルミやマグネシウムホイールの開発をすすめる者が現れた。林将一(ハヤシレーシング)、渡辺俊之(RSワタナベ)、濱田政信(スピードスター)、田中弘(ヒーローズレーシング)、後にアルミホイールの老舗ブランドとなるこれらコンストラクタ達が昭和43年(1968)前後までにはレース用のアルミホイール製作に成功していた。しかし、国内で初めてアルミホイールの製造に成功したのは、ここに挙げたコンストラクターでもないし、資金力にものを言わせたメーカー・ワークス系でもなかった。その企業は静岡にあり、それまではレースとも自動車とも無縁で、二輪用アルミ部品をホンダやヤマハに納めていた。正式な会社名は遠州軽金属といったが、地元や関係者は省略してこう呼んでいた
エンケイ。
ホイールメーカとなることを運命づけられていたかのようなこの愛称は後に同社の正式社名となる。(パートIIに続く)