Specializing in DATSUN Export models AKA USDM
ダットサンといえば、かつての日産の小型車販売ディーラ、もしくは小型トラック・ダットラを思い出すひとが多いだろう。若年世代になると、きいたことがないという人も多いかもしれない。しかし、海外では日産車は1980年代まで、全てDATSUNブランドで販売されていた。このため、海外では日産旧車はNISSANとしてよりはDATSUNとしての方が知名度が高い。特に北米市場では1970年代に当時のUS NISSAN社長片山豊の徹底した市場調査から生まれたDATSUN240Z(初代フェアレディZ)が大ヒットし、1975年にはDATSUNは米国輸入車販売台数第一位の人気ブランドとなった。
北米の安全基準、性能要求(過酷な寒暖差・高速巡航)、そしてデザイン指向に合わせた専用パーツを装備した北米輸出モデルは北米仕様とよばれ、日本車でありながら、アメリカンな押しの強い雰囲気を醸しだすことから、実は新車、旧車問わずコアなファンが存在するスタイル。特にDATSUNはDATSUN240Zの他にも後継の280ZX(130Z)やDATSUN510(ブルーバードP510)がレースなどで大活躍したこともあり、有名なアメリカンブランドから、今もたくさんの専用パーツが販売されているので、日本車でありながら、国内の旧車とはまた違ったテイストやスタイルを楽しむことができる。一方で、純粋な外車やアメ車とは異なり、エンジン、ブレーキ、ボディなどの基本パーツは国内モデルと共通のため、パーツの流用・確保や情報入手も有利な点が多い。
DATSUN FREAXでは、そんな北米仕様のDATSUNを中心に、北米・オーストラリアからオーダに基づく車両探し、車両輸入・登録の他、レストア・メンテナンスはじめ、日産純正パーツ、希少NOSパーツの輸入・販売している。FREAXの名前のとおり、240Zや510といったDATSUNの王道モデルだけでなく、710(バイオレット)・200SX(シルビア)・B210(サニー)といったマイナーなモデルにも光をあて、スポーツモデルだけでなく70Sのアメリカの国民生活や文化に浸透していったコンパクトモデルも取り扱っている。また、同時期のトヨタやKAWASAKIなどの2輪車についての北米仕様モデルなどを常時ストックしている。
ホームページには商品の情報だけでなく、モデルガイドや北米でのレース史、YOUTUBE動画の紹介・解説などのコンテンツなどにも力を入れているので、ちょっと変わった日産旧車を探している、北米仕様のDATSUNに興味のある方は是非一度アクセスを。車両販売だけでなく、購入後のメンテナンスやドレスアップ用パーツもKyusha.netのフリーマーケット・オークション VINTAGE CITYに出品している他、出品以外にも希少NOSパーツを多数在庫している。在庫以外のパーツについても国内外のパーツディーラに照会可能なので、お探しのパーツ・車両ある方はホームページの問い合わせからまずは相談を。
HOME PAGE:HTTP://WWW.DATSUNFREAX.COM
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DATSUN FREAXのVINTAGE CITY内の出品をチェック!
北米は今でも世界最大の自動車市場で、日本だけではなく世界中の高級車やスポーツカー、一般車が数多く取り引きされています。日本車が北米に進出したのは1950年代ですが、当時は性能の差も歴然でブリキのおもちゃ扱いでした。現地での販売も商社経由の細々としたもので、売る方も買う方もまじめには考えていないというお寒い状況した。こんな状況をブレークスルーしたのが単身現地にのりこんで DATSUN ブランドひいては日本車ブランドの真価を北米市場に知らしめた片山豊でした。片山は綿密な現地市場・競合分析を行い本国日産に対して北米で戦えるクルマのスペックを提示し、その粘り強い交渉に日産も重い腰を上げ DATSUN510・DATSUN240Zといった北米輸出専用仕様モデルが生まれました。両モデルの大ヒットを皮切りに DATSUN は国民的ブランドに成長、1975年にはついに輸入車シェアNo1となります。
片山が要求したスペックの中でも、特にこだわったのが排気量と価格でした。インターステートが完成し、東西南北が高速網で結ばれ、どこまでも直線が続くハイウェイをべた踏みで走り続けるような環境が到来していました。日本国内では想像もつかない使用環境に適応するには、同じ馬力数でも高回転型ではなく高トルク型、従って高排気量エンジンが不可欠でした。当初難色を示していた本国に対し、片山は最後まで排気量アップを主張。510は 本国1400CC → 北米1600CC、 240Zは本国 2000CC → 北米仕様2400CCという北米専用仕様が生まれました。このこだわりが先述の北米での大ヒットにつながったのは無論、本国も後に本格的なモータリゼーション社会を迎え排気量を上げて北米スペックに追従していくことになるのは周知の通り。ピーキーで繊細なメンテを必要とするメカニズムを排して、その分排気量を上げてトルクフルで快適なロングドライブと耐久性能を重視するというこの仕様変更はDATSUNのみならず、その後の日本車メーカの北米輸出モデルに共通の特徴的スタイルとなりました。
70年代、アメリカの自動車社会を揺るがす深刻な問題がたてつづけに起こります。カリフォルニアなどの都市部を中心とする排気ガスによる大気汚染の深刻化、OPECの戦略的石油価格引き上げによるオイルショック、ハイウェイの速度制限、安全性能基準の大幅強化。こうした社会的な要請に適応、対応していく過程でより特徴的な北米仕様が確立されていきます。
今や海外での取引では常態的に1億円を超えるようになったトヨタ2000GT。ボンネットが前に細長く突き出たロングノーズと低い重心(車高)は当時のスポーツカーの特徴で、そのスタイリッシュな表情にするため、横に細長い形状のヘッドライトが採用されていました。しかし北米ではヘッドライトの高さに最低地上高が定められており、2000GTのオリジナルのライト位置ではその高さ(24インチ)が確保できず、リトラクタブル式ヘッドライトが設置され、オリジナルのヘッドライトはフォグライトに仕様変更されました。リトラクタブルヘッドライトは日産やトヨタなど、その他多くのスポーツカーに多く採用され、ライズアップライトとも呼ばれました。多くの低重心のスポーツカーがこの方法で北米の安全基準に適合しましたが、マンネリ化、安全性、故障しやすいなどの理由から、最近では採用されることがほとんどなくなりました。北米仕様のリトラクタブルヘッドライトを採用した車は、レアなモデルとしての人気は続いています。
現在にも続く北米仕様車のわかりやすい外観上の特徴にリアの赤色サイドマーカがあります。国内仕様ではあまり採用されていませんが北米では安全基準として義務付けられています。北米仕様のサイドマーカーはフロントがオレンジで、リアがレッドで、フロントについては国内仕様と同様にみえますが、よくみると前後ともに反射板が組み込まれており、国内仕様にはない特徴となっています。夕暮れ時の帰宅ラッシュの渋滞に光る赤いサイドマーカはアメリカのハイウェイ独特の風景です。
北米仕様車のもう一つの特徴的な違いにテールライトのターンシグナル(ウィンカー)の色があります。日本、ヨーロッパをはじめ、現在ではほとんどの国がブレーキは赤、ターンシグナルはオレンジ(アンバー)が常識ですが、アメリカでは以前は専ら赤が主流で現在も”赤でもいい”とされています。日本国内でも昭和40年前後まではいわゆるワンテールというブレーキ・ターンシグナル兼用で赤一色のテールライトスタイルでしたが、70年代以降は保安基準によりアンバーに完全移行しました。いまだにかたくなに赤一色のテールライトが残るところに良くも悪くも保守的でドメスティックな方のアメリカらしさを感じます。それだけに、”北米仕様っぽさ” ”アメリカ臭さ” を出すときにはサイドマーカと並んで重要なパーツとなります。
1972年に乗用車の衝突安全性能要件を定めたFMVSS215という基準がアメリカで施行されました。この基準では時速5マイルで衝突したときに車体に主たる損傷が生じてはならない、とするものでした。5マイルといえば、駆け足ぐらいのスピードですから、衝突ともなればかなりの衝撃となります。特に作りが華奢(きゃしゃ)だった日本車は対抗に苦慮することになりました。登場した当初は、車両のデザインが5マイルバンパーの装着を想定をしていなかったため、車体から大きく出っ張るなど、デザインの上でも巨大なバンパーの存在感が半端なく、”デカバンパー” ”5マイルバンパー” に加え、そのルックスから”(いかりや)長介バンパー”と呼ばれることもあります。施行当初は急速にシェアを伸ばしていた”日本車いじめ”とウワサされましたが、慣性重量の大きいアメ車も適応は容易ではなく施行直後のモデルをみるとやはり結構ごついバンパーを装着しています。
しかし、これだけ巨大なバンパーを装着してもまだ基準をみたせず、このバンパーにはもうひとつ国内仕様にない機構をそなえています。そのまま直接ボディに固定するのではなく、衝突時の衝撃を吸収するショックアブソーバが組み込まれているのです。よく見ると巨大なだけでなく、ボディから不自然にせり出して装着されていることに気が付くかと思います。デザインの調和性も重量配分もあったものではないわけですが、そんな小さなボディにデカバンパーで武装して屈強なアメ車と渡り合った日本車の歴史を思うと、逆にとてもけな気で愛おしく感じられてきます。なお、アメ車も対応に苦しんだこともあっては1982年には衝突基準となる速度が5mphから2mphに引き下げられ、デカバンパーの時代は終息することになりました。
現在では日本車の国内仕様でもほとんどがドアミラーですが、昭和生産ぐらいまで、ほとんどの国産車はフェンダーミラーが主流でした。アメリカの基準では従来からドアミラー装着を義務づけていますが、義務付けているのは”運転席側の”ドアミラーのみで、助手席側は任意です。この基準にかかわらず、現在ではほとんどの新車は左右にドアミラーがついていますが、1970年代から1980年代前半くらいまではアメ車も日本車の輸出仕様も基本的には運転席側ドアミラーのみで助手席側はオプション設定でした。1970年前後のモデルではオプションどころかパーツの設定自身がないものもの少なくありません(DATSUN240Z、DATSUN510など)。当時の雑誌広告やカタログなどはみなドライバーサイドのミラーのみなのが確認できます。
もうひとつ、アメリカではミラーのレンズ形状についてNHTSAが定めた基準があり、ドライバー側のミラーは平面でなければならいことになっています。助手席側には規定がありませんが凸面(広角)鏡の場合には距離感を錯覚しないように「OBJECT IN MIRROR ARE CLOSER THAN THEY APPEAR(実際にはもっと近いよ)」という警告表示が義務付けられています。さすがは訴訟大国アメリカ、日本ではありえないような判決が判例として採用されることもあり、対策としてそこまで書くかという注意書きが多く存在します。これも現代的なアメリカらしさの表れているポイント。
これはDATSUNにおいてもっとも顕著になったデザイン傾向でしたが、5マイルバンパーによって、バンパーが巨大化すると見えにくくなったパーキングランプをフロントグリルに埋め込むというデザイン変更が北米仕向け仕様の定番となりました。また、1970年代後半からはランプ位置の変更だけでなく、グリルのデザインそのものも北米仕様専用のモノが使われるようになり、5マイルバンパーやターンシグナルの移動などと合わせて国内仕様とは大きく雰囲気の異なるフェイスリフトが施されていきます。
これもDATSUNの初期の販売戦略に顕著な特徴で、片山豊の慧眼によるところが大きいのではないかと思いますが、北米での販売では個別の車両のネーミングよりもDATSUNというブランドの浸透が重視されました。このため、フェアレディZはDATSUN240Z、ブルーバードはDATSUN510、サニーはDATSUN1200とリバッジされて、エンブレム類も車名に変えて”DATSUN”表記で統一されました。モデル名は無機的、記号的な数字表記で表現されました。この結果、DATSUNのブランドは広く浸透し、ある意味では日産よりも有名な国民的ブランドとなりました。片山が北米日産を退いて後、日産は北米でのブランドをNISSANに統一してみたり、かといえばインフィニティブランドを立ちあげたりしましたが、その結果は。。。
他にも、排ガス浄化装置(特に基準が厳しかったカリフォルニア向けは専用仕様だったりします)やワイパースイッチの位置、スピード、トリップメータのマイル表示、タイヤサイズ、バッテリ容量、シートベルト方式、ラジオ周波数、テールライトの反射板、こーしょんプレートなどなど、知れば知るほど細かな仕様の違いが見えてきます。メンテナンスをしながら、カタログやカーショウなどで見比べながら、そんな違いを発見していくのも北米仕様モデルの楽しみ方のひとつではないでしょうか。