THIS IS A COLUMN
ブタケツ、ダルマ、クジラ、ケンメリ・・・サンマル、ニーナナ、ヨタハチ・・・旧車好きや車好きの会話では車種名ではなく型式や愛称が使われることが多い。長寿の車種・シリーズになると車種名だけではどの世代のモデルを指しているか特定できないからだ。でもそれだけではない。そこには単にモデルを区別するための記号を超えた意味や想いや歴史が込められている。特に愛称については決まった命名ルールがるわけでもなく、誰ともなくそう呼び始め、いつのまにか定着したものが多い。それだけにそのモデルの特徴や印象を喚起する絶妙なものが多く、また愛称で呼ばれる車というのは良くも悪くも人々の記憶・印象に強く残った特徴・インパクトを持ったモデルのことが多い。名車であれ迷車であれ、人々の記憶に強い印象を残した愛称で呼ばれることの多いモデルを集めてみてみえてくることとは。(ハチロク、サンマルなど型式で呼ばれているものや、エスハチ、べれジーなどモデル名を短縮してるだけのものは挙げるときりがないので省略しました。)
調べてみるとスカイラインは愛称の多さでもその知名度・浸透度という点でも別格だった。しかも、こうして眺めてみると、単に人気がある、高性能というだけではなく、各世代がそれぞれ濃いキャラを持っていて、それが愛称という親愛表現につながっているように思える。ここに挙げたモデルはちょうど桜井眞一郎がスカイラインの開発を統括していた時期に一致している。こうしてみるとスカイラインでありながらも各世代が強烈な個性をもったモデルばかりであることに気づかされる。桜井眞一郎というと技術者としての才能・功績が協調されがちだけれど、車の個性を際立たせるキャラづくりの天才でもあったということに改めて気づかされる。
先進的技術やデザインを取り入れた意欲作を多く送り出しながらも、それゆえに経営面では苦戦を強いられ最終的には日産に吸収されて消滅したプリンス。そのプリンスのフラッグシップだったグロリアにも野心作多く、その特徴から愛称で呼ばれることが多い。そういえば、スカイラインももともとはプリンスのモデルだったし、桜井眞一郎もプリンス出身だった。スカイラインもグロリアも合併後廃止の方針が決まっていたが、根強い人気により存続。廃止どころかドル箱シリーズといっていいラインに成長していった。
愛称 | モデル写真 | 型式 | 販売期間 | 由来? |
ハチマキ | S40系 | 1962 – 1967 | ボディ形状モールデザイン | |
タテグロ | A30系 | 1967 – 1971 | ヘッドライト配列 |
1955年以来60年にわたる不動のトヨタ看板モデル。派生車種も多く、もはやひとつのブランドといっていい存在に。クラウンというと保守的で和風なイメージが強いが、攻めてた時期もあって、そんなモデルに限って印象に残ってしまうものなのか、愛称で呼ばれることが多い。でも、オニクラなんかより、現行のマジェスタなんかの方がよっぽど人相悪くないですか。
愛称 | モデル写真 | 型式 | 販売期間 | 由来? |
カンノン
ビラキ |
S40系 | 1962 – 1967 | 前後ドアが観音開き | |
クジラ | A30系 | 1967 – 1971 | フロントマスク(バンパー)形状 | |
オニクラ | S40系 | 1962 – 1967 | ヘッドライト・サイドマーカデザイン | |
ゼロクラ | A30系 | 1967 – 1971 | キャッチコピー |
グロリア、クラウンときたので高級車くくりということで。クラウン、セドグロのセグメントに食い込もうと三菱が放ったモデルで、GMのデザイナを雇って描かせた本家アメリカの先進デザインを取り入れたスタイルだったが、セールス的には不発。そのせいもあってか、モデルチェンジもないまま1964年から1986年まで20年も販売されつづけ、ついたあだ名が走るシーラカンス。。。
でも実は初代センチュリーはもっと長い間(なんと30年)モデルチェンジしてなかった。それが完成度の高さの証しと映るところがセンチュリーののすごいところ。
愛称 | モデル写真 | 型式 | 販売期間 | 由来? |
シーラカンス | A30系 | 1964 – 1986 | 長すぎた販売期間 |
1600CCクラスをこう呼んだ時代があった。70年代、マイカーブーム、スポーツカーブームの主戦場ともなったこのクラスだが、愛称を持つモデルは以外と少ない。少ないので2000CC以下の乗用車(軽自動車以外)まとめてしまう。
そして忘れてはならないのが軽自動車。やはり、個性的で印象にのこる名車ぞろい。
愛称 | モデル写真 | モデル | 販売期間 | 由来? |
テントウムシ | スバル360 | 1958 – 1970 | ボディ形状 | |
ケサブロウ | K360 | 1959 – 1970 | モデル名 | |
水中メガネ | ホンダZ | 1970 – 1974 | リアウィンドウトリム | |
マー坊 | スズキ
マイティボーイ |
1983 – 1988 | モデル名キャッチコピー |
ヨーロッパではモータースポーツといえば紳士・貴族の高貴な趣味というイメージが定着している。一方、アメリカのレースはこのイメージとはかなり様相を異にしている。アメリカのレースはギャングや密造酒の運び屋たちの非合法なストリートレースがその起源にあり、粗野でアウトローなイメージが基本にある。NASCARにしろ、NHRAにしろアメリカのレース団体の歴史は、そうしたアウトローな世界を安全、合法的に実施できるように組織化、競技化して市民権を得ていく歴史だったといってもいい。
クルマ好き、特にアメ車好きには伝説となっている映画がある。1970年公開のアメリカ映画”TWO LANE BLACKTOP”(邦題”断絶”)。興業的には不振に終り、一部の映画好きのみに知られるカルトムービーだが、映画の冒頭はそんな非合法なストリートでのドラッグレースシーンで始まる。この冒頭シーン、むかしは日本にも地域に一か所はあった深夜の公道ゼロヨンを体験したことがある人だったら、当時の興奮がよみがえること間違いない。緊迫感というか、見る人がみたら血液が逆流するような興奮を覚えるあの独特の雰囲気が誇張なしに記録されているからだ。それもそのはず。というのも、このシーンの撮影には当時のEast LAのストリートレースを仕切っていたBig Willie率いるStreetRacersという実在のチームが参加・協力して、当時のストリートレースの様子を忠実に再現しているのだ。
で、そうはいっても1960年代70年代の話。旧き良き時代のむかし話しとノスタルジーに浸ってたら、アメリカではほとんど変わらない光景が今も懲りずに日常的に繰り広げられていました。。。醸し出す雰囲気はもちろん、レースの作法、パトカーの登場までまんま Two Lane、やはりストリートレース発祥の地、その伝統とDNAは受け継がれているということなんでしょうか。
ところで 映画TWO LANEはこんな派手なオープニングとは裏腹に、その後半ではクレイジーなレースにあけくれる若者の満たされない内面を静かに描写していく。当時のニューシネマがROCKなどBGMを多用したり、衝撃的な結末を用意して主人公たちをヒロイックに演出したのとは対照的に、どこまでも続く救いのない日常とその中で繰り返される出会いと別れ、それらが登場人物たちの心情にもたらす変化を寡黙に淡々と描写していく。ニューシネマにカテゴリされながら、実はニューシネマに期待されるヒロイズムを徹底的に排除した地味い~な映画だ。そんなこともあって前評判に反して興業的には失敗に終わった映画でもある。しかし、だからこそ、派手でヤンチャで英雄的な側面だけではなく、孤独感、焦燥感や不安といった内面も冷静にとらえたロードムービーの傑作として車好き以外にも熱狂的なファンがいる映画。是非、一度は全編を鑑賞してみてほしい。
]]>昔はどの雑誌にもあった”読者投稿”。この言葉自身がなんだかもうノスタルジアですが、かつて読者投稿のコーナはプロの写真や文章には表現できないパワーを秘めていました。ホリデーオートの80年代の人気コーナ”Oh!My街道レーサー”。当時私は小学生でしたが、本物のクルマをプラモデルのように改造してしまうお兄さんたちに衝撃をうけ、このコーナだけは毎回欠かさず必ず立ち読みしてました。企業やプロが大資本を投じて製作したカスタムカーのクオリティには遠く及ばなかったはずだし、写真もピンボケ気味だったけれど、コメントや写真には何かとてもパワフルでハングリーなものがみなぎっていて、それが自分にも伝染して勇気とやる気が湧いてくる不思議なコーナでした。
投稿写真、読者投稿の最大の魅力はそんな ”俺もなんかやってみよう!” ”なんかできそう” ”おれだったらもっとこうする” みたいなパワーをさずけてくれるところではないかと思います。皮肉なことにショーカーやカスタムカーのKnowHowや技術が洗練され向上すればするほど、そういう刺激を与えてくれる機会に巡り合うことは難しくなってしまったような気がします。こんな時代だからこそ、隣のお兄さんが愛車で青春している写真を世界は必要としているのではないでしょうか!。。。。ええ、とにかく、というわけで、写真とコメント投稿のできるコーナーを作ってみました!あなたやあなたの家族・友人が愛車と過ごした思い出の一コマ、青春の一コマをコメントとともに投稿してくださいませ!
名車、珍車、改造車である必要はまったくありません。あなたにとって特別な車、特別な時をきりとった写真であればフツーのクルマで全然OK、過去の写真ばかりでなく現在の愛車を思い入れポイントとともに紹介いただくのも歓迎です。思い出重視でも車重視でもかまいません。ただし、是非、写真(ファイルアップロード)+その思い入れ、思い出のコメントつきでお願いします!!
[contact-form-7]
今日では当たり前のラジアルタイヤや3ピースのアルミホイールが登場する以前のスタイルを記録した貴重なお宝画像満載のサイトみつけました。創業1923年の小林タイヤ商会のOldtimerコーナーのページは70年代当時の超貴重な鮮明画像はもちろん、装着タイヤやホイールのサイズ・ブランドも正確に記載されていて資料性も高いすばらしいサイトです。ひっぱりタイヤやハノ字シャコタンだけが旧車のスタイルではないことを思いださせてくれます。タイヤショップの記録写真だけに、装着直後の新品ホワイトレタータイヤとアメリカンスタイルのホイールが眩しいっす!
http://www.kobs.co.jp/oldtimer/index.html
”これを読むとき、知っている人は、石原裕次郎の横浜物語を、口ずさんでくれ”ではじまる小説のような回想録。スーパーカーブームに翻弄された横浜の輸入車ディーラ シーサイド とその関係者の盛衰を描いた傑作BLOG。思わず一気に読んでしまいました。ところで写真に写っている女性が誰だかわかりますか? 答えはシーサイド物語08 ”LP500Rが盗まれた!”ページでご確認ください(以下リンク)。
http://www.castel-dino.com/president/seaside_008/main.html
昭和40年ごろ、父が初めて手にいれた車、マツダキャロルで富士山にドライブしたときの写真です。母の記憶では軽なのに重くて、坂道でよく降りて押したそうです。父は中学の教師でしたが、通勤にはその後も軽自動車を使いつづけ、校長になっても中古のホンダZ(水中メガネ)やN360で通っていました。3年前に他界して、写真など整理していたら出てきました。ちっぽけな車なのに、得意そうに顔を出す姿が愛おしく、車が急速に普及し始めた当時の空気を感じさせます。(Fussa68)
昭和60年ごろ、バイト先で撮ってもらった写真です。当時はバブル絶頂期でターボチューン・ロムチューンが全盛でしたが、なぜか私の周囲では2TGをいじっている者が多く、自分もCARBOYを読み漁り、解体屋で3Tクランクを探して2Lを組んだりしていました。
]]>旧車やクラシックカーの場合、車種名だけではどの世代のモデルを指しているか特定できない。モデルを特定するために愛称や型式名で呼ぶことが多い。愛称を持つモデルについてはパート1にまとめたので、型式についてもまとめてみた。”専門外”の車になると型式で言われてもピンとこなかったり、型式の数字部分が同じ別の車の話だったりする。たとえば、30とか130などはフェアレディにもセドリックにも、グロリアにもあったりする。数字部分だけだとトヨタと日産でかぶっていたりもする。特にサンマルとイチイサンマルは多い。そこで、旧車の外見(写真)と型式名の一覧をつくって、なおかつ、スワップミートなどでの会話や、この車なんだっけといったときにチラとチェックできるようにスマホで見やすいレイアウトという条件で早見表と作成。写真と比べてみるには横置きが最適です。写真をクリックすると拡大表示されます。最初はエンジン他の情報も一覧にしようと思ったのですが、スマホの見易さ重視で断念。
50
]]>
Feb 22nd, 23rd, 2014
2014年2月22日23日、横浜みなとみらいの大型屋内展示場パシフィコ・横浜で開催された旧車イベント、第6回 ノスタルジック 2デイズ
国内の有名旧車ショップが勢ぞろいするインドアイベントなので業界の動向を垣間見ることができました。通常のスワップミートやカーショウと比べると各ショップがリリースした最新パーツの展示会としての性格も強く、特に今年はL型関連、日産旧車関連で各ショップのノウハウを凝縮したプロダクトの展示、リリースが目立つ内容でした。
OS技研からは同社が30年前に自社開発した伝説のL型用の24バルブDOHCヘッド TC24Bの改良版 TC24BZ を展示。フロントカバーを外して精巧なギアトレインを露出した4気筒バージョンも同時展示、クオリティおよび技術力の高さをアピールしていました。パーツアシストのブースでは奈良のチューニングショップSPARKにて開発中の同じくL28のシリンダーブロックにRBのDOHCヘッドをセットしたエンジンがハコスカに搭載され展示されました。
L型エンジンは製造から半世紀が過ぎようという古参エンジンながら、今だに各ショップが現在進行形で新たなパーツ開発や改善にしのぎを削る過熱ぶり現役ぶりを印象づける内容でした。
チューニングエンジンばかりでなく、ストックに忠実に質の高いレストレーションをほどこされた車両も多く、地味ながら技術力の高さを感じさせる車両も多数展示されていました。
今回の展示車両の中でも、特に強烈な存在感をはなっていたのが水野ワークスのケンメリ。昭和街道レーサの美学ここに極まれりと。こうなるともう一種の様式美というか伝統美というか、そういう文化財的なくくりで見ていいような気がします。ケンメリもブタケツも価格が高騰してしまって、なかなかうかつにいじれるクルマではなくなって、ちょっと敷居が高くい、というか窮屈な空気も漂う中、すがすがしささえ感じました。
創業者の鈴木健次は零戦で有名な中島飛行機の浜松工場のアルミ鋳造技術者だった。終戦後、GHQ指令により飛行機製造は禁止され、中島飛行機は消滅。ゆたんぽなどの日用アルミ製品製造に転身していたが、ちょうどこのころ湯たんぽの製造技術を使ってガソリンタンクができないかと考えていた本田宗一郎の目にとまる。2輪用のアルミ部品製造を開始し、当初は成功を収めるが昭和40年には経営的に苦しい状況に陥っていた。そんなおり、取引先の米国系商社マンから、アメリカでアルミホイールが大ヒットしていて飛ぶように売れていること、製造できるメーカを探していることを聞きつける。アメリカでは1963年に不滅のド定番ホイールがほぼ一斉に発売され、マッスルカーブームとも相まって大ヒットとなっていた。
American Racing EquipmentからはTorque Thrust、ANSEN AutomotiveからSprint、そしてBell Auto PartsからはCragar S/Sがほぼ同じ時期に発売された。ヒット商品のお約束通り、大小の業者がこのブームにあやかろうと、同じスタイル(要するにコピー)のホイールをリリースし、それがまたより幅広い層(一般層)に広がっていくという循環により、市場は大変な活況を呈していた。
昭和41年、鈴木は早速試作に着手、翌年には正式な採用が決まり、量産化、輸出が開始された。 (このビジネスは大成功となり昭和45年1970には年間3万本を輸出するまでの規模に拡大し、昭和59年(1984年)現地法人設立、翌年の現地生産開始という本格的な北米進出につながっていく。)
そして、昭和43年いよいよ国内でも販売が開始された。当初はカー用品を扱うヤマコのチャネルでシルバースターというブランドで発売されたが、同年7月からはエンケイブランドでの販売も開始された。アンセン・スプリント タイプのディッシュ、アメリカンレーシング・トルクスラスト タイプのスポークに加え、翌年にはこれにメッシュが加わった。ここまでの経緯でお気づきの方もいるだろう。 どうしてほとんどの国産車が4穴の中であえて5穴のスポークホイールがラインナップされたのか?それは北米輸出モデル(北米はほとんどが5穴)を国内向けにリリースしたためだったのだ。(ディッシュやメッシュはセンタのサークル部分のドリルピッチを変えれば容易にボルトパターンを変更できたが、スポークはスポークデザイン自身を変えないと変更できず、それには専用の別の鋳型を新たに作らなければならなかった。)
周知の通り、これらのホイールはデザインにおいても、品質においてもその後の国産アルミホイールのデファクトとなっていく。70年以降はメッシュタイプなどを中心にあらゆるスタイルのホイールをカバーし、国内外の主要自動車メーカへのOEM供給からF1へのホイール供給まで手がける世界のトップブランドへの飛躍を遂げていった。
さて、エンケイが輸出したホイールに関連して、アメリカのホットロッダー達のスレッドで話題になっているビンテージホイールがあったので紹介させていただく。無数にあるトルクスラストのコピーブランドの中にAPPLIANCEというのがあるのだが、このホイールの裏にはJAPANの刻印がある。そして、コピー品なのにクオリティがやけに良い。知っているコピーもんの中ではずば抜けてるし、下手したら本物よりいいかも?と話題に。すると、昔そのAPPLIANCEにいたという人物がスレッドに入ってきて ”そりゃそうだよ。エンケイがアメリカに進出するまえに作ってたホイールだもん。進出前の腕試しだったんじゃね?” とたねあかし。一同納得。
昭和43年の春、エンケイのホイールが国内で販売開始されたほぼ同じ時期、もうひとつ別のアルミホイールが販売を開始していた。ザラザラとした鋳肌の砂地もそのままに、ひたすら機能美に徹した8本スポークはガンメタに塗装されるかあるいは鋳物そのままのベアで購入することができた。ピッチやPCDもきめ細かく指定することができ、明らかにレースユースを念頭においたそのデザインは、その印象どおり、多数のレース車両作成とレース参加経験から導かれたモノだった。翌年には純レース用ホイールとして本物のマグネシウムホイールを販売したり、自社の鋳造工場を有し独自の工程管理を行うなどコダワリを貫いてきたRSワタナベの8スポーク。
昭和51年には8本スポークのいさましいイメージもそのままの4本スポークや5本スポーク(5穴)もリリースされた。が、これはさすがにマニアックに過ぎたか、今では入手困難(めちゃほしいっす!)。そして80年代、走り屋と呼ばれ、夜中峠道をしゅるしゅるいわせながら走り回っていた人たちはみんなこの8本スポークを履いたのだった。逆にいうと、この8本スポークを履くと、どんなクルマでも硬派な走り屋っぽく見えてしまう魔法のホイールだった。
かようにレースイメージの強いいさましいブランドでレース用スポーク一筋かと思いきや、80年代にはメッシュタイプやディスクタイプのホイールを販売したこともあった。(おっとっと)。ところでワタナベのロゴマークは三羽の鶴をかたどったもので、和をモチーフにしたクールなデザインだなと思ってたら、これはワタナベ本社のある鶴見(鶴三)にちなんだ(ダジャレともいう)デザインなのだそうだ。おちゃめ。
創業者濱田政信自身のレース経験やニーズから開発されたという点ではワタナベやハヤシなどのサーキット由来のホイールと共通なのだが、スピードスターがすごいのはそのずば抜けたオリジナリティだった。デザイン、構造、そして製造工法いずれも独自の着想に基づき開発され昭和46年(1971)5月から販売された。鍋の製造工法に着想を得て、1ピースが基本の時代に3ピース構造のスピードスターマークI、マークIIを立て続けに発売。その後もシリーズ化、圧倒的な軽さとコストパフォーマンスを誇り、サーキットを席巻した。その後も積極的なレース参戦によるデータ蓄積と開発へのフィードバックによりシリーズは進化を続け90年代には半溶解鍛造という独自工法での鍛造ホイールの量産に成功している。初代のスピードスターシリーズはそういったレーサーエッジのイメージもあってか、サーキットの外でレーシング(ただし漢字表記になる場合が多い)を名乗るヤング達にも人気を博した。人気ホイールの宿命として、無数のコピーキャットが群がり、そこから”スーパースター”が生まれたりもしていた(リスペクトもほどほどに)。冗談抜きで70年代後半から80年代にかけてのホイールデザインに大きな影響を与えた。2005年、倒産により一時販売が途絶えたが、総合パーツメーカのタナベが買収しスピードスター、SSRなどのブランドのままに製造・販売が継承・再開されている。
創業者の林将一は60年代から本格的なレースマシン・フォーミュラーカーの開発を手がけ、69年の日本グランプリに向けて製作したマシン(カーマンアパッチ)のために専用のアルミホイールを開発。これをストリート向けにリファインして73年、ハヤシストリートとして発売した。その後も本格的なレースカーのコンストラクションを本業とし、日本のレース界の人材育成・振興に貢献してきたがレースカー開発事業は1985年に東京R&Dに売却された(ホイールの販売は継続)。ハヤシストリートはそのデザインが黄金期の国産ロードバイクのキャストホイールを彷彿とさせるとこがあるせいか、なんというか乗っている人もクルマも、少しトッぽくて、言ってみれば先輩のケンメリが履いていそうなホイールだった。
この辺のイメージはハヤシレーシングのレース活動、デザインに加えて、弥生とかHARTなどのちょっとカルトな麗心愚系ホイールとの血縁関係から来ているのではないかと思う。1981年、ヤングなオートをフューチャーした極めて明確なメッセージとポリシーをもった雑誌が創刊された。この雑誌を中心にテクノプロジェクトという販売元からTRV、弥生、ファントムといったホイールが発売されたが、当時はそれほど売れず、数年で廃盤となった。
近年、伝統を重んずる団体(チームともいう)を中心にヤングなオートを忠実に再現し、その様式を文化として再評価する動きが活発化すると、その中でこれらのインディーズ系ホイール、中でもナショナリズムをくすぐるネーミングとデザインの弥生への人気がそのミステリー性とあいまって急上昇し、流通数の少なさから中古品相場が急騰した。製造を請け負っていたハヤシレーシングから再販されたことで相場は沈静化?したけれど、近年再評価されたホイールの典型例。TECHNOやHARTといったカルトホイールもほぼこれと同じパターンでインディーズ系?の販売ブランドから発売され、ハヤシレーシングが製造を請け負って一時期販売されていた。見るからに重量感のあるワンピースとインディーズブランドの醸し出すカルト性という点で、シャドー、ビルボなどとともに独特のハードコアなジャンルを形成している。
近年、弥生のデザイナーだった凡十郎さんが当時のいきさつについて興味深い回想を語っている。曰く、弥生のデザインはテクノレーシングというチームからの依頼で、弥生というのはそのチームリーダの奥さんの名前だったそうな。なるほど、それで弥生いのちなのか。
で、ホイールはそんなに売れなかったけど、ステッカーはやたら売れたとも。確かに、あの赤いステッカーと加工鉄チンは街道レーサーを自任するヤング達のアイコンだった気がする。(ってホイール弥生じゃねーのかよ!)
こうして老舗ブランドのホイールが60年代末から70年ごろにかけて大ヒットすると、OEMメーカ、タイヤメーカ、自動車メーカといった大資本から、インディーズ系、カルト系企画ブランドまで、有象無象がこのブームにあやかるべくアルミホイールの販売に乗り出した。さらなる経済成長やバブルにつながっていく高級志向とも相まって、70年代後半から80年代前半の自動車雑誌の広告欄はこうした追従ブランドの製品とビビッドなキャッチコピーでを埋め尽くされることになった。そんなブームの渦中で、大真面目で考え出され、生み出され、そして消えていったブランドや迷キャッチコピーや企画広告を今あらためて見直してみると、これまたとても味わい深く、なぜか元気と勇気が湧いてくる。機会があれば、そのあたりについてもまとめてみたいけれど、何分爆発的に品種が増えている上に、謎めいたブランドも多くて、どこから手をつけていいやら。
]]>生産が終了してからもう25年がたとうというのに、今だに新設計のレース用パーツが次々とリリースされつづけているエンジンがある。はっきり言って、特に画期的な設計のエンジンだったという訳ではないし、例えばS20のような伝説的な成績を残したレーサでもない。ただ、平凡さと頑丈さのかたまりのようなそのエンジンは、それ故にストリートチューンの素材としては絶好の条件を備えていた。
旧車雑誌の懐古的な誌面上だけでなく、現役のチューニング・エンジンとしても今だに別格の存在感を誇る日産のL型エンジン。トップクラスのLメカは、NAのレシプロエンジンのクラスでは今だに国内のドラッグシーンの主役として活躍している。ターンフロー、SOHCという現役当時でさえ、時代遅れといわれたレイアウトのこのエンジンの人気が、今だ衰えを見せないのはなぜか。そこには、ストリートに根ざした無数のチューナやプライベータ達が徹底的にこのエンジンに拘り、そのポテンシャルを追及してきた歴史があった。決して洗練された純粋培養のレースエンジンではなかったL型は、レーストラックやメーカのR&Dによって完成されたのではなく、ストリートによって見出され、ストリートで磨かれてきたエンジンだった。 L型の存在が、名機と呼ばれる他のエンジンと比較してどこか異質なのは、このアウトローな生来にある。ではストリートシーンはいかにして、この平凡なエンジンの中にそのようなポテンシャルを見出すことになったのだろうか。
何よりもまず、このエンジンは誰でも手の届くところにあった。1970年代から80年代を通じて、日産の2リッター超クラスには軒並みL型が載っかっていたから、80年代後半ともなれば解体屋のエンジン山にはL型がたわわに実っていた。ヤードの主人と懇意になれば、ただ同然の値段でベースパーツを調達することができた。一部の人にしか手に入らない特別なレース用エンジンではなく、誰もが手の届くところにある流通数の多いエンジンであることはストリート・エンジンとしての基本的な素地だった。そしてさらに、この条件に加えてL型のチューニングを面白くしたのが豊富なバリエーションとその互換性、流用可能性だった。20年近く日産のラインにのり続けたから、L型には必然的にたくさんのバリエーションが存在した。L13・L14・L16・L18・L20B・L20・L24・L26・L28・LD28、ほとんどのモデルのジャーナル径やピッチが共通化されていたことからクランクやコンロッドの自由な組み合わせが可能となり、様々な流用チューンを可能とした。
例えば、L28よりも3ミリボアの大きいFJ20のピストンとL28よりも4ミリ、ストロークの長いLD28のクランクシャフトと組み合わせ、ストロークやピン上の変更分を、リーチの長いL14コンロッドでつないでやり、ピストンのトップランドのカットで突き出し分のツジツマ合わせすれば、L28改3.1Lが完成した。日産製の純正部品の組合せ+加工だけで、こんな仕様が完成してしまうことになった。こうして日産自動車の心憎いご厚意(?)により、純正部品のかたちをしたチューニングパーツが解体屋経由で豊富に供給されたから、誰もがチューニングにトライできる素材として、L型のストリートチューニングはますます盛り上がっていった。FJピストンの他にもFT500、XT500など軽量でピン上の短い単気筒の二輪用ピストンの流用や、その後もG20ローレル、KA24プレーリ、VG30のピストン流用など、いろいろな組合せが編み出されていった。
生粋のレースエンジンが繊細なサラブレッドとするなら、ストリートエンジンに求められるのは、それとは対照的な粗野ではあるが頑丈でたくましい気質といえた。製造公差も大きく、耐久性、経済性を重視したL型は、要するにノーマルでは重くてダルいエンジンの代名詞だった。しかし、そうした公差や安全マージンを徹底的に削り取り、パフォーマンスサイドに突き詰めていくことで、このエンジンの性格は豹変した。メーカ自身がブロックのディメンションを変えずに排気量を当初の2Lから2.8Lまで40%も拡大したことをみても、このエンジンがいかに伸びしろをもった設計だったかを物語っている。ストリートチューンではここからさらに3.0L~3.2Lにボア&ストロークアップすることが定番メニュとなった。拡大した排気量でトルクを太らせ、これを基礎にバルブタイミングやカムのプロフィールを追い込んでいくことでL型は別物のエンジンに生まれ変わった。バルブタイミング、吸排気ポート形状、燃焼室形状、キャブのジェットセッティング、突き詰めるほどにそのさらに奥が見えてくるチューニングの世界に日本中のプライベータ達がハマッていった。
プライベータだけではなかった。”このエンジンいじれなかったら商売にならなかった。” このエンジンでどこまでできたかが、チューナにとっても、その技量を誇示するものさしとなっていった。 雑種のようなエンジンでサラブレッドをカモる、その辺に転がっているエンジンからメーカも想像しなかったようなポテンシャルを引き出す。日本中のプライベータや売り出し中のビルダー、チューナ達がこのエンジンのそんな可能性に夢中になった。いや、ムキになったといってもいいかも知れない。例えば、ひと気の途絶えた工業団地を貫く直線道路、湾岸沿いの埋立地や埠頭付近の倉庫地域に延びる長い長いストレート、こんな場所で週末深夜、人知れずそのチューニングの成果が競われるようになっていった。
80年代も後半になると、メーカをラインオフした時点で既に完成度の高い後発のエンジンが続々登場した。世間一般のチューニングの主流は、従ってエンジン内部に手をいれるメカチューンよりもROMチューンやターボチューンに移っていった。しかし、そんな時代にもL型チューニングの灯は消えることなく、ノウハウを蓄積してきた多くのチューナからクオリティの高い専用パーツがリリースされ、改良が重ねられていった。ターボチューンが全盛となった時代に、あえてメカチューンにこだわるLメカのストイックな存在感は当時のターボ全盛のストリートにおいても別格にクールなものがあった。チューニングのレベルは向上し、出力や記録も伸び続けたが、トップレベルの争いはとてもシビアになった。それだけコストも気合も要るものとなったが、こうして残ったトップノッチのLメカはそんな時代にあってもなお後発モデルを寄せ付けない速さを見せつけた。例えばゼロヨン会場では、Lメカがソレックスの吸気音とともにひとたびエンジンを始動し、暖気をはじめただけでも、辺りの空気は一変した。セッティングが決まったときのハイチューンのLメカの咆哮は、まるで意志を持った生き物のようだった。アクセルワークに瞬時に反応して盛り上がるキャブの吸気音とメカニカルノイズは、マシン自身までもが抑え切れない興奮を顕わにして周囲を威嚇しているかのようだった。薄暗い街灯に照らされてスタートラインにステージングするLメカが放つその硬派で不良っぽい佇まいは、辺りたちこめる生ガス混じりの排気ガスの匂いとともに、今でも鮮明な記憶として脳裏に焼きついている。
ギャラリーが増え過ぎて最低限の秩序さえも失ってしまった公道でのゼロヨンは、当然の帰結として消滅していった。しかしドラッグレースをオフィシャルなレース競技として継続的に運営・主催するクラブや雑誌は存在する。公式なレーストラックにその競技の場を移して、今のなおL型のチューニングは進化をつづけている。試行錯誤の解体屋チューン、流用ピストンの時代から、ハイクオリティの専用パーツが揃うようになった今日まで、このエンジンはストリートに根ざして、たくさんの伝説や武勇伝を残しながら、多くのプライベータやチューナの試行錯誤によって進化し続けてきた。その製造が打ち切られてすでに25年を経ようとしてもなお、進化をとめようとないこの偉大なる平凡エンジンには、日本のストリートチューンの歴史、思い出が凝縮されている。
]]>なんだかんだいって、車の中で最も重要なパーツはホイールだと考えている人は多い。極端なケースでは履きたいホイールがあって、それに合う車を探して選ぶ人さえいる。人間で言えば靴のようなもので、うわものをどんなに決めても、中身がどんなに偉かろうが、そこんとこでやっちまっていると全て台無しに。。。ホイールとそれに合わせるタイヤサイズやフェンダーとのギャップのキメかたで、オーナのスタイル、コダワリの深さ(浅さ)、価値観までも伝わってしまうと言う恐ろしいパーツだ。チョイス次第ではクルマとそのオーナのキャラまでも全く違って見えてきてしまう決定的なパーツ、ホイール。それを逆手にとって、ミーティングの内容やその時の気分でホイールを付け替えて楽しむ、という強者もいる。そういう人どうしの会話になると、逆にアリだ、とか、一周半回って今は無しだ、とかもうよく意味のわからない、尽きることのないホイール論争が続くのだ。そんな、コアなオーナ達を熱くさせるホイールについて調べてみたら、いろいろと面白いエピソードと世界がかいま見えてきた。ひとつのホイールを選んで履いた姿に、そのホイールの歴史やストーリまでも重ね合わせて見ることで、その佇まいはさらに深みをましていく。旧車を趣味とすることの面白さはと深さは、そんなところにもあるんじゃないかと改めて思う。
昭和40年代、日本列島は高度経済成長に湧いていた。東海道新幹線開通、東京オリンピック、大阪万博、気がつけば昭和43年にはドイツを抜いてGNP世界第二位となり、いわゆる平凡な中流家庭にも”豊かさ”をわかりやすくカタチにした製品がいきわたりつつあった。中でもこの時期に爆発的な普及をみたのがマイカーとカラーテレビだった。それは生活を便利にしたのはもちろん、衣食住足りた日本国民に、そのさらに先に広がっている”すばらしき”世界があること、つまり娯楽、そしてさらなる贅沢の追求という新たな欲望を喚起したのだった。 その欲望を具現化するかのように昭和40年、東京モーターショウではトヨタ2000GTのプロトがツイッギー付きでお披露目された。42年から本当に販売が始まり翌々年までにはハコスカGTRやフェアレディZ(S30)も発売された。やがてヒーロー達にふさわしいステージも用意される。同年には東名高速が全線開通、鈴鹿サーキットが昭和37年、富士スピードウェイも昭和41年オープンをむかえる。鈴鹿では早速、戦後初めてとなる自動車レース、第一回日本グランプリが開催され、20万を超える観衆がつめかけたりしていた。環八沿いには自動車用品を扱うカーショップが次々にオープンした。クルマを娯楽の対象として、あるいはステータスやスタイルの表現手段として楽しむ時代の幕開けだった。
昭和38年(1963年)の第一回日本グランプリ開催の時点では、まだ国内でアルミホイールを製造できる者はなかった。ワークスのレース車両でさえ、スチールホイールをカットして円筒を溶接してワイド化したいわゆる加工ホイールで戦っていた。この技術を今に伝承する鎌ケ谷ワイドホイールのみならず、当時はレース用ホイールの定番として流行。東名自動車(現東名パワード)の最初の製品も加工ホイールだったという。この流れにのり、TOPYや中央精機といった純正OEMメーカーがアフターマーケット用に最初から太リム幅のスチールホイールやメッキホイールを供給しはじめ人気を博した。(そう、ワイド鉄チンの中には加工モノではなくてTOPY純正?のものもあるんです!!)中央精機のメッキホイールはエルスターと名付けられ、パラマウント・WEDSから販売された。ワイドホイールやメッキホイールはアルミホイールの普及後も価格が低かったことから並行して存在したが、70年代後半には姿を消していった。エルスターのヒットはレース需要だけではないアクセサリとしてのカスタムホイール需要の高まり、つまりドレスアップパーツとしてのアルミホイール需要のポテンシャルを示していた。量産アルミホイール登場の機は熟していた。
第一回日本グランプリでは海外の本格的なレースカー10数台が招待参加した。走行はエクシビジョンに近いものだったが、その足元と固めていた専用マグネシウムホイールに国内レース関係者はカルチャーショックを受ける。資金力とコネのあるレースチームは輸入規制をかわして高価な輸入ホイールを手に入れ、誇らしげに装着するようになった。ワークス系では中央精機がホンダに、神戸製鋼が日産にレース用のマグネシウムホイールを試作・製作し、製鋼はトヨタ2000GTの純正マグネシウムホイールも製作した。プライベートのコンストラクタのなかにも、独自にアルミやマグネシウムホイールの開発をすすめる者が現れた。林将一(ハヤシレーシング)、渡辺俊之(RSワタナベ)、濱田政信(スピードスター)、田中弘(ヒーローズレーシング)、後にアルミホイールの老舗ブランドとなるこれらコンストラクタ達が昭和43年(1968)前後までにはレース用のアルミホイール製作に成功していた。しかし、国内で初めてアルミホイールの製造に成功したのは、ここに挙げたコンストラクターでもないし、資金力にものを言わせたメーカー・ワークス系でもなかった。その企業は静岡にあり、それまではレースとも自動車とも無縁で、二輪用アルミ部品をホンダやヤマハに納めていた。正式な会社名は遠州軽金属といったが、地元や関係者は省略してこう呼んでいた
エンケイ。
ホイールメーカとなることを運命づけられていたかのようなこの愛称は後に同社の正式社名となる。(パートIIに続く)
]]>車のパーツの中で最も重要なパーツは?と聞かれたら何と答えますか。
見方によっていろいろな答えがありえますが、タイヤと答える人は少なくないと思います。
1トンからの荷重を支え、あらゆる天候下・路面状況でエンジンの加速を路面に伝え、
ステアリングの横Gに耐え、いざというときの制動(ブレーキ)の性能を左右するのも最終的にはタイヤです。
最近では燃費や騒音(静音)といった多面的な性能要件も加わりました。
しかし、タイヤは性能面での重要性だけでなく、車全体のビジュアルに与える影響においても非常に重要なパーツです。
特に旧車やアメ車においては、タイヤやホイールのチョイスは、その車の性格やスタイルの表現手段であり、
そのチョイス次第でオーナーのキャラさえも伝わるといっても過言ではありません。
また1970年代から徐々に定着してきた北米仕様を用いたレストレーションなどもキャラが際立ちます。
ストックに忠実なレストレーション、現代的なアップデート、カスタマイズを施したプロツーリング、
昭和の街道レーサーゆかりのスリックタイヤなど、あらゆるスタイルや表現方法があります。
一般の人にとってはどれも黒くて丸い同じようなものでも、そのサイズやホイールのチョイスで、
車の性格や印象は一変してしまいます。スタイルにこだわって車に乗るなら、タイヤだってスタイルは無視できません。
人気の旧車やアメ車の黄金期、1960年代末から50年近く、この間タイヤの性能は飛躍的に進歩しました。
しかし、車は当時のタイヤ装着を前提に設計されているので、不用意に現代的な高性能タイヤを装着すると車に過度の負担を強いたり、
乗り心地を損ねてしまうこともあります。
ところが、近年のホイールの大径化により旧車の純正サイズのタイヤの入手はなかなか困難になりつつあります。
違和感は感じていても、他に選択肢が無いという消極的な理由で”しかたなく”現代的なタイヤを履いているオーナーも多いのではないでしょうか?
仮に同じサイズのタイヤが見つかったとしてもトレッドパターン(溝の形状)やサイドウォール、
ショルダー部分のデザインは当時のスタイルとはかなり趣きを異にします。見た目的にも旧車の味を損ねてしまう点も否定できません。
特に60年代当時のラジアルタイヤはほとんど普及しておらず、大半はバイアスタイヤと呼ばれるクラシックな形状のタイヤを装着していたのですが、
このタイヤがクラッシクカーらしさの印象の大きな要素にもなっているのです。
クラッシクカーやビンテージカーの厳密なレストレーションにおいては、使用するパーツの時代考証にも厳格で、
最近では車の生産年と使用パーツの生産年との整合性にも気を配ることは、常識となりつつあります。
オリジナルのストックに忠実に再生されたクラッシクカーに、現代的なブロックパターンのロープロファイルタイヤでは、
せっかくの精密なレストレーションも台無しにしてしまいます。
しかし、タイヤはゴム製品になります。ボディのパーツなどと違って、使用可能な当時モノを見つけるのは至難の業です。
でも、あるところにはあるんです!実は自動車文化の先進国アメリカやイギリスでは、そうしたクラッシクカー専用に、
当時の金型を使ったタイヤが現在でも生産・供給されているのです。
英国ダンロップ、ピレリ、エイボン、アメリカではファイアーストン、グッドイヤー、M&H、BFグッドリッチといった、
名門タイヤメーカの60年代、70年代のスタイルのタイヤが現在でも生産されているのです。
上級者になるとサーキット、ショウやミーティングでの展示・撮影用と用途に応じて、
タイヤやホイールのチョイスを変えて楽しむ、という方も多くいます。写真などでは分かりにくい場合もありますが、
やはり旧車には当時のデザインのスタイルのタイヤが良く似合います。ショーなどで実際に目にすると、
タイヤのトレッドやサイドウォールのデザインが車全体の雰囲気や佇まいに、大きな影響を与えることに気が付きます。
Kyusha.netのオークションや紹介ショップでは、こうしたビンテージカー用のタイヤをお取り扱い販売しております。
時代考証により忠実な旧車スタイルを求めている方、旧車や輸入車本来の雰囲気を大切にしたいと考えておられる方、
ぜひ一度チェック、相談してみてはいかがでしょうか。
また新品の商品などもあり、日産純正新品 240Z, ダッツンコンペ用DATSUNロゴホーンパッドなどもございます